学祖 簡野道明
 簡野道明 小伝
ドイツ・フレーベルセミナー校との姉妹校締結
蒲田女子高等学校 有竹会
漢詩名作集(上) 漢詩名作集(下)
簡野道明 小伝
東京へ
 明治二十五年「もっと勉強したい。」という強い気持ちはついに学校長の職を思い切りよく捨ててしまって、上京を決意させたのであった。東京に出たからと言って、仕事の当てがあったわけではない。頼りになる知り人がいるのでもない。妻や子供を餓死させないという保証はどこにもない。それでも簡野先生は、決然として郷里を後にされたのであった。固い強い覚悟であったに違いない。先生の苦難の時代、苦学の時代が始まったのであるが、先生は苦学という言葉を好まれなかった。 「世の中に、学ぶほどの楽しみは他に何があるか、何もない。学ぶと言うことはこの上なく貴いことである。私たちはこの学ぶことの為に働くのである。たとえどのように心や体が骨折りであったとしても、学ぶ為にはそれは楽しみであって、苦しみではない。苦学などという文字、言葉はあっても、そのような事実はない。」と言われている。論語の中の「学びて時に之を習う、また悦ばしからずや。」をそのまま感じ、行っているのであった。家賃月六十銭という粗末な家で、石炭箱を横にして、その上に風呂敷をかぶせたものを机にしての勉強が続いた。先生の髪はいつも奥さんが鋏で刈られた。身につけていた洋服は、当時六十銭で買ったものであった。お金がなくて大変苦しんだけれども心はいつも豊かであった。奥さんに刈られた虎刈りの頭の中には多くの書物からの知識が、きちんと詰め込まれており、石炭箱の上では、後々までもその価値が残る立派な本が作られていたのである。粗末な洋服を着ていても、その体の中には激しい向学心が溢れていたのであった。そんな苦しい貧しさの中にあっても、先生も奥様も決して他人の助けを借りようとはされなかった。また、お母様に対しても決して不自由をおかけすることはなかった。さらにどんな 時でも、どんな場合にも人の道に外れた行いは絶対されなかった。最も古くさいと言われている、孔子などのいう「君子の道」註を確実に守って生きようとした人であった。そうすることが「お金の面でも豊かになるものであり、成功することである。」という信念のもとに生きた人であった。

*註  君子の道・・・徳の高い立派な人の行う道
高師在学時代
 明治二十八年、東京高等師範学校に国語漢文専修科が設けられた。簡野先生はこれに入学 された。既に中等教員の免許状を持ち、漢文の教科書の編集や校閲をやっていた先生がどうして…。と不思議に思う人もあるかも知れないが、これまた、止むに止まれない向学心の表れであったのである。在学中は、先生の学問・識見も相当なものであった上に、教授も大家であったから、互いに磨き合い励み合い、先生の研究も進んだものと思われる。
教育者として
 高等師範学校卒業後、東京府師範学校(青山師範学校の前身)に勤められた。在職中に「初等漢文読本」「高等女子漢文読本」「中等漢文読本」等を出され、その後引き続いて次々と本を著していかれることになる。  明治三十五年、三十八歳で東京女子師範学校の教授になられる。ある年、時の皇后陛下(照憲皇太后)が学校にお出でになり、生徒の授業をご覧になるということがあった。各教師は当日の為に授業の予行演習を幾度も幾度も行った。が、簡野先生は一度も、何もされようとしなかった。心配した生徒が「何か予行演習をしてください。」と先生に申し出た。ところが先生が襟を正して言われたのは、「自分は平素、最善の努力を尽くして授業をしている。情熱と誠意の限りを尽くした授業だ。これ以上のことは何もできない。予行演習も良いが、無理に芝居のようなことをするのは却って失礼になる。君子の恥ずる行いであるから自分にはできない。」と言うことであった。生徒たちは一言の言葉もなく引き下がったという。この頃から先生の教育に対する考え方が次第に変わってきたようであった。「教壇に立つ教育は、どんなに細かく丁寧に説明しても限られた時と人との間の範囲内でしかない。もっと多くの人々を、後々の世までも為になる教育をするには本を書く以外にはない。」と考えるようになったのである。こうして先生は、五十歳になった大正三年、きっぱりと教壇を去り、本を書き著わすことに打ち込んで行かれたのである。簡野先生が古い文字や言葉の意味を解釈する時、大変詳しく、行き届いていたことは事実であったが、それは、言葉の意味を正しく理解する上で必要であるからであった。 また先生は、孔子や孟子の教えが中国では既に亡んで、行われなくなってしまったことを歎いて、彼の国の人々にこの教えを広め、この教えで導き彼らを救っていかなければいけないといつも話しておられた。
※吉田町立図書館作成より転載