学祖 簡野道明
 簡野道明 小伝
ドイツ・フレーベルセミナー校との姉妹校締結
蒲田女子高等学校 有竹会
漢詩名作集(上) 漢詩名作集(下)
簡野道明 小伝
漢 詩
 現在、漢詩を作る人は稀である。それは、漢字が難しい上に、詩のきまりが複雑で、面倒くさいと感じるからであろう。ところが先生は、既に十一、二歳の頃から漢詩を作られていたらしい。十七年の歳月を経て書き上げたとされる不朽の名著漢和辞典「字源」の序の初めに「予、幼時、唐詩選・三体詩を愛読し、且つ好みて五、七言絶句を作り推敲苦吟・夜々夜分に達せり」とあって数年間は詩作に熱中されたようである。けれども、十五、六歳以後は自由に作られ、字句を考えたり選ぶために苦心をしたり、何度も何度も練り直したりすることはなかったと言われている。自分の胸の中から流れ出る言葉を、あり合わせの紙にさらさらと書いたものが詩になっていたという。上品で、しかも格調の高い詩になっていたのである。 先生の詩は、酒に酔った時、または勉強の際などにふと感じて、封筒やはがきの端、新聞の折り込み広告、包装紙、パンフレットの裏、領収証、中には薬の包み紙に書かれた詩もあった。だから作られた詩の大部分は、掃き捨てられたり紙屑として屑籠に放り込まれたりしたと思われる。書物の間や、原稿用紙の中などに紛れ込んで残ったものが「虚舟詩存」という詩集に残っている幸運なものである。「詩は余暇にするので、自分の本来の仕事ではない。」と言われて、詩を残すこと、詩集を作ることを好まれなかったのである。「虚舟詩存」は先生の死後、弟子たちによって編集されたものである。

*註 唐詩選・・・中国、唐代百二十六人の詩を集めた詩集
*註 三体詩・・・唐詩を五言律詩、七言律詩、七言絶句の三体に分けて集めた詩集
道明先生の書
著 述
 先生の出された本はよく売れ、よく読まれた。亡くなった後も却って読者が増えているという。現に「字源」は平成元年に三百版が出されており、今後も尚版を重ねるだろうと思われる。また、先日(平成二年十月)静岡市の某書店の書架に「唐詩選詳説」の新本を発見して感激したことを付け加えておく。 先生の著作する時の態度は真剣そのものであった。本を著すと言うことは先生にとって生命そのものであると言っても過言ではない。著書のすべては先生一人の手によってできたものである。何度も何度も自分で校正した。できた本はその日のうちに読み返して念入りに調べ直した。
一字一字、正確に調べて作られたのであった。晩年病気に苦しまれながらも、印刷所から校正刷りが返ってくると直に病床で校正される。周囲の者がご病気に障ることを気遣って、遠ざけるとかえってそのことが病気に障ったのであった。先生の本はまさに先生の体の肉を分けて作られたのであり、その中に先生の血が脈々と通っているのである。 また先生は特に我が国の学者の書かれた本について詳しく読んでおられた。「それは、どの先生の、どの本を見ればよい。」「それは、何先生の註と、何先生の註を合わせてみれば良い。」と言うようなことを良く暗記され、言われていた。図書館や、古本市などで実際に見たものは言うまでもなく、一度でも聞いたことは決して忘れると言うことがなかった。「それは、何の本の何頁にある。」と言われる。先生の著書については、「何頁の何行目にある。」とまで言われて人々を驚かしたものであった。先生が本を出そうと思い立つと、数年、あるいは十数年にわたって材料を集め準備する。そしていったん筆を持つと、人間わざとは思われないほどの速さで一気に書き進めて行かれる。それは、長い間、頭の中に順序立てられていたものをするすると引き出すのに似ていた。  著書に古人の説を引用する場合など、古人の本がいかに貴重な本であっても、平気で本の中から引用の部分を切り抜いて自分の原稿用紙に貼り付けられる。「もったいないではありませんか。」と言うと「出来上がれば、この本がさらに良いものになるから、もったいないと言うことはない。」と言われる。先生が自分の著書に対して持たれた自信の程を知ることができるのである。先生は、もちろん、その他の書物でもいつも正字を使い、俗字や略字は使用しなかった。これは先生の考え方によるもので、「文字は、それぞれの字ができた歴史と意味を持っている。一点一画にもそれぞれの意味がある。それを、単に『使う場合不便である』『覚えにくい』等という浅はかな理由で、数千年も、幾千万の人々に使われてきた文字を変えてはならない。」と。これが先生の持論であった。また、「中国の学問を研究するには、先ず一字一句の読みや意味を理解していなければ、たとえ幾百、幾千・万の本を読んでも心に深く止まらないであろう。」更に「狩谷棭斎先生が “文字の関まだ越えやらぬ旅人は道の奥をばいかで知るべき” と歌を詠んで、自分の為に学問の方向付けを示してもらった。」と文字や段落毎の意味の大切さを説かれたのであった。

*註  狩谷 棭斎・・・江戸後期の国学者で漢唐代の書を研究し、多く著書がある。
一歩を譲る
 先生の処世訓に「すべて物事は万事控え目にして、一歩を人に譲れ。」とある。仮に十だけの仕事をしたとき、十の報酬を得たとすれば、これは当然で正しい取引であろうが、社会奉仕という立場から考えてみると何も残らない。世の中で尊いものは無報酬の仕事である。無報酬の仕事を多くすることが人格の向上であり、徳を積み修行していく方法である。十の仕事で、五の報酬を得て満足すれば、五の仕事が残る。全然報酬を得ないで満足すれば十の仕事が世に残る。このような無報酬の仕事を陰徳というのである。陰徳を積み重ねていくと、やがて良い報いが表れてくるのである。こんな人はいつも心が広く、体も伸びやかであると言われている。  また、十の仕事をしながら、十二、三あるいは二十、三十の報酬を欲しいと願い、もし得られたならば成功したと思い、幸運であったと喜ぶものがある。このようなものは、常に借金を負っているようなものであって失敗者であり不幸である。道に外れて金持ちになったとしても、それは浮き雲のようにはかないものである。実力以上に認められようとするのは誠に気の毒なことである。そんな人でも時には金持ちになり、栄えることがあるかも知れないが、それはほとんど期待できない・・・と。
※吉田町立図書館作成より転載