学園の歩み

エピソード

間雲荘

 学園の敷地は、学祖である漢学者 簡野道明先生が著作や勉強のために使われた別荘地でありました。大正の終わりの頃、勉強部屋を捜し求めていた先生ご夫婦は、まず下丸子周辺を探し歩いておられましたが、目ぼしい物件がなく、多摩川の畔を下流に沿って探していたところ、この土地が目に留まりました。当時、この地は代官屋敷跡で少し台地になっており、空気のよい六郷の提を越して、ゆっくりと動いていく帆が見えたそうです。ご夫婦は大層気に入り、ここ羽田の地に別荘を構え、間雲荘と名付けました。先生は休み度にここで過ごされ、食事は一汁一菜で、極めて簡素な生活をされ、終日著作に没頭されたそうです。

 先生は永く女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に奉職しておられましたが、公職を退いた際に、小石川の自宅から間雲荘に住まいを移されました。
朝は未明に起床し、一日中著述に専念しておられましが、著述或いは読書に疲れた時は、詩など吟じつつ、よく邸内を歩きまわられたそうです。

間雲荘にて

 当時の間雲荘は、夫人の信衛先生が動物好きだったことから多くの動植物で賑わっていたそうです。室内犬のテリア・大型犬のシェパード・庭には土佐犬を放し飼いにし、山羊や九官鳥も飼い、池には蘭鋳も養殖していた上に、養蜂も手がけていたといいます。また、枇杷・梅・桃・柿などの実のなる木のほか、竹・菖蒲・松・バラなどが植えられ、四季折々に美しい庭だったといわれています。

創立当時の間雲荘および校舎

心字池

 間雲荘の敷地内には心字池(しんじいけ)と名付けられた池があり、現在は幼稚園の園庭の一部になっています。当時は、大きな鯉が泳いでおり、その池に続く田には数百種の菖蒲があり、中には見事な花を開く珍種も少なくなかったそうです。

心字池は、文字通り「心」の字を模した形に作られており、「心」の字の三つの点に当たる大きな岩は、道明先生の第二の故郷である愛媛県から運び込まれたものです。二つの岩は池の中にあり、昔はきれいな川蝉という鳥がやってきては、時々休んでいました。
もう一つの岩は、今日では池の外の庭の中にあり、子ども達が岩登りをして楽しんでいます。この度、70周年記念事業として、子ども達がより安全に楽しく遊べるよう、池を浅く埋めて水が流れるように改修工事をしました。

心字池 改修工事完成予想図
エピソード2

道明・信衛先生胸像と銘

 現在の間雲荘には、学祖 道明先生、創立者信衛先生の胸像が据えられています。
 学祖 道明先生の胸像は、その偉業を称えるために、簡野家の遠縁にあたる彫刻家 柴田佳石先生(本名 簡野福四郎)によって制作されました。佳石先生は、日展に委嘱出品を続け、後に慶應義塾大学三田キャンパスの『福澤諭吉胸像』の作者としても知られています。

また、かねてから親交のあった歴史家 徳富蘇峰先生が、道明先生の胸像の銘を作られました。
 昭和41(1966)年の創立25周年に際し、創立者 信衛先生の胸像が、同じく柴田佳石先生の手により完成され、同年11月5日、間雲荘で生徒代表も参加して、除幕式が行われました。これにより学園の聖地 間雲荘に学祖・創立者先生をお迎えすることができ、ご夫婦が揃って本学園の教育活動を見守り続けておられます。

写真左/書・徳富蘇峰
中/簡野信衛先生  右/簡野道明先生

簡野道明先生胸像銘

園遊会

 間雲荘には現在でも枇杷の木が残っており、毎年6月には実がたわわに実ります。また当時は大小色とりどりの菖蒲が咲く見事な心字池がありました。毎年6月14日前後には、多くの客を招き「園遊会(別名・枇杷会)」が開かれていました。会は数日間にわたり開催され、延べ500人が出入りする大々的な催事でした。雑誌『国民之友』発行に携わった歴史家 徳富蘇峰先生(作家徳富蘆花の兄)を始め著名人から近隣の方まで、多くの来客が押し寄せ楽しんだといわれています。この会の開催は、道明先生の「社会への還元」のご意向が大きく反映されています。日頃は『字源』をはじめとする多くの著述に専念するために、門を閉じ客を謝していたので、この園遊会が間雲荘に人が集まる年にただ一度の機会でもありました。先生はこれを何よりの楽しみとされ、心の限りのおもてなしをされたと言われています。
 この枇杷の実が熟し、菖蒲の花が咲く時期の園遊会を記念して、毎年6月14日が本学園の創立記念日となっています。

道明先生直筆の書

エピソード3

漢和辞典『字源』

 道明先生は、多くの著書・漢文教科書を執筆されていますが、その終生の大著は漢和字典『字源』です。その序文「字源編纂の縁起」(下記参照)には、西洋学問に対し東洋学問が日に日に衰えていくことを危惧して、正確な知識を収録した字典を刊行しようとしたこと、当時、辞書の刊行は複数の学者が共同で監修をするのが一般的であったのに対し、道明先生は、大字典の完成という責任を負うため、職を辞してまで独力での字典執筆を決意されたことが書かれています。
 そして、着想から実に二十余年、大正12(1923)年、59歳の時に歴史的名著『字源』は完成されました。先生が学者生命を懸けて執筆された『字源』は、掲載語彙の意味が正確であること、出典も確認できること、音訓語彙索引の工夫や、語彙の配列が五十音順(従来は画数順であった)であること等から、発刊以来300版を超えるロングセラーとなりました。そして、現在でも東京大学図書館をはじめ、中国の旧満鉄大連図書館など、多くの図書館に所蔵されおり、唯一の正字、正仮名遣いの字典として、今なお専門家から高い評価を受けています。

エピソード4

創立者・初代理事長 簡野信衛先生

 創立者 簡野信衛先生のお父上は蘭医で、福沢諭吉先生ともご交遊のあった方でした。信衛先生は元治元(1864)年、愛媛県松山にご誕生になりました。当時の愛媛は、江戸時代より様々な思想や政治の潮流が交差する土地柄であり、このような教育環境に恵まれたためか、信衛先生は、封建的女性教育者とは異なる、かなり進歩的世界観とグローバルな視野をお持ちでした。愛媛県の大洲喜多村の小学校で訓導(今の教諭)をされており、その頃に道明先生とお知り合いになりました。学者である道明先生は、仕事のこととなるとかなり気難しいところがあったそうですが、信衛先生は、夫のために黙々と働き、相当な心配りをごく当然のごとくにこなしておられたといいます。道明先生は教育者でありましたが、お子様やお孫様の躾や教育は専ら信衛先生にお任せだったそうです。

信衛先生は、子ども達に『四書・五経』などの素読をご教授なさっておられましたが、その一方で儒教を始め仏教・キリスト教・日本神道などにご理解のある大変柔軟なご思想の持ち主でもありました。また揮毫・家政学に優れ、夫を陰で支え、よく子らの養育をし、世に賢夫人として令名高くおられました。

 昭和13(1938)年に道明先生が亡くなられた後、その遺志を受け継いだ信衛先生は、この広い間雲荘をただ遺族の者が安閑として暮らすだけではなく、いつか広く社会に還元したいと考えていらっしゃいました。しかし、当時、戦況はますます悪化し軍事色の強まる中、政府は間雲荘の広大な土地を利用して、その敷地を軍事工場にしたいと申し入れてきました。

道明先生亡き後、この地を守ってきた信衛先生は、これに賛同されませんでした。それは「戦争」とは非人道的行為であり、道明先生のご遺志とはかけ離れたものだったからです。そこで、この間雲荘を純粋な学問探究の場として守ろうと女学校の創立に尽力をすることをご決心なさりました。このご決断は、学問、そして教育への真摯なお心の反映であり、本学園の誇りの一つです。
 戦前の女子教育、多くの女学校創立の精神は「良妻賢母」が主流でしたが、本学園は、創立者 簡野信衛先生を始め、岩垂憲徳先生・佐藤文四郎先生・池田一理事・簡野高明理事といった創立にあたった方々の数年にわたる話し合いの結果、「堅実な女性の育成」「簡野道明先生のご遺志である『社会への還元』」という当時としては先進的な建学の精神を打ち立て、理想的な女学校の設立を目指し、昭和16(1941)年4月、財団法人簡野育英会 蒲田高等女学校として創立されました。
 信衛先生は初代理事長に就任され、本学園の創立もまことに順調で輝かしいものでしたが、それとは別に第二次世界大戦が次第に拡大され、東京も来る日も来る日も空襲の恐ろしさにおびやかされるようになりました。そして、ついに昭和20(1945)年4月15日の空襲によって、本校の校舎、講堂そして美しかった校庭も全焼してしまいました。
 当時、老齢だった先生を想い、周りの者は是非疎開して頂きたいと懇願しましたが、信衛先生は「吾が身をかまっていたのでは、学校の復興はおぼつかない」と申されて、聞き入れませんでした。
そして、校舎全焼という憂き目に失望されることもなく、学校再建に努力されていましたが、ついに昭和20(1945)年5月29日、大森の仮事務所において焼夷弾の直撃を受け、殉職されました。享年82歳。法名「慈徳院貞信有竹大姉」(信衛先生は竹をこよなく愛したことから号を「有竹」とされました。本校同窓会「有竹会」、文化祭「有竹祭」の名称はこれに由来します。)

エピソード5

二代目理事長 簡野よし先生

 簡野よし先生は、戦災で殉職された母 信衛先生の跡を継がれ、昭和20(1945)年に第2代理事長に就任されました。先生が就任された当時、社会は第二次世界大戦による大混乱期にあり、戦中戦後、2度に亘って消失した校舎の復興に血の滲むようなご苦労をされました。誰もが食べることだけで精一杯で、他の事など考えられない時代、周りの者はしばらく時期を待つようにと勧めた中、「今私がやらなかったら、折角の母の志が無くなる」と言って学校の再建に尽力されました。昭和22(1947)年6月に完成した仮校舎は、12月に失火によって再度消失してしまいましたが、それにも屈せず、鈴木豊太郎理事などのお力添えもあり、年々復興の一途を辿りました。
 また、よし先生は、父親である道明先生が、生前女性の教育と共に幼児教育の重要性を述べられておられたことを想起し、その志を継いで、昭和34(1959)年4月に付属幼稚園の設立にも尽力されました。

園の設立に際し、よし先生は当時50歳を過ぎたご年齢にも関わらず、自ら目白の保育専門学校にご入学され、若い人にまじり講義を聞き、実習をなさり、保育士・幼稚園教諭の免許を取得されました。
その後、昭和48(1973)年に、学祖道明先生が教授を務めたお茶の水女子大学が指導大学を引き受けて下さり、蒲田保育専門学校が設立されました。これにより、学祖・創立者の道明・信衛先生ご夫妻の女子教育と幼児教育がしっかりと手を結び、ご夫妻の夢がよし先生によって実現されました。
 このように、多年にわたりわが国の教育事業の発展に尽力された功績が評価され、昭和42(1967)年、5月31日付で、藍綬褒章を授与されました。(褒章の記、『多年教育に携わり、常に施設の充実を図って子弟の教育に努め、よく教育の振興に寄与した』)伝達式は本校創立記念日の6月14日、午前11時から、国立教育会館において行われ、式後、皇居において天皇、皇后両陛下の賜謁が行われました。PTA主催の祝賀会は7月1日午後3時、本校体育館において開催され、出席者は160余名、心から理事長簡野よし先生の栄誉を祝福しました。また、昭和48(1973)年、長年の私学教育振興の功により勲四等瑞宝章叙勲の栄に浴されました。昭和61(1986)年にご健康上の理由から理事長をご退任され、平成元(1989)年2月7日、ご自宅にて逝去。享年89歳。同年3月4日学園葬が本校体育館において、しめやかに執り行われました。
 教育事業に力を注がれて26年。幾多の苦難に見舞われつつも、校舎、設備の充実、生徒の指導に忍耐と勇気をもってあたられた簡野よし先生こそ、現在の女子教育・幼児教育という本学園の建学の精神を具現化された「第二の建学の母」といっても過言ではありません。