学祖 簡野道明

簡野道明 小伝

生いたち

 吉田町が誇る漢学者、簡野道明先生は、慶応元年、江戸八丁堀(東京都中央区八丁堀)の吉田藩の屋敷で生まれた。小さい頃の名前を米次郎といった。 祖父 吟右衛門に男の子がなく、女子二人のうち、姉に養子を迎えた。それが米次郎の父 義任である。 明治二年、五歳の時、版籍奉還により、一家を挙げて江戸を引き払って吉田へ帰った。家は御厩奥(吉田高校のあたり)の藩士の長屋であった。 簡野先生は六、七歳頃に父により文章の読み方や、習字を教えられたが非常に頭が良く、教えられる総てを身につけていった。 八歳になって小学校に入学された。当時の小学校は御殿を使っていたが、今の小学校と違って非常に程度の高い内容のものであった。たとえば唐の詩を読んだり、漢詩を作ったり、漢文を読んだり、作文したり等であった。毎月一度テストがあったが、いつも一番は先生であった。 当時、簡野先生の父は、小学校の教師をしていたが、用事で京阪方面に出張することがあった。学校を休むことはできないので、十一歳であった先生が、父に代わって教壇に立たされた。ところが驚いたことには、この少年教師が、父先生よりも教え方がうまいという評判であったという。 当時、先生が中心になって日本外史(頼山陽の書いた漢文の歴史書)の勉強をしていたが、仲間の浦尾惟正少年にはその書物が無かった。吉田じゅうを尋ねても見当たらない。そこで先生は「大洲にはその本があるから、買いに行ってやろう。」と浦尾少年と一緒に行くことを申し出られた。まだトンネルの抜けていない、険しい山道を越えて片道八十キロ余の道を歩かれたのであった。学問のためにはどんな苦労も厭わない先生の情熱と、仲間の為には苦渋を共にする友情の厚さに驚かされるのである。 また、食べている魚を裏返しにして「おや、こっちにも身がある」と言って喜ばれたという笑い話も残っている。 十四歳の時、課外塾という今の補習科のようなところに入り、漢学、数学等を勉強された。その時の教師は、主として森蘭谷先生と兵頭文斎先生であったが、漢詩を好んで作るようになったことは文斎先生の影響であったと思われる。  その後簡野先生は、東宇和郡白髭小学校の代用教員となられたが、年わずかに十六歳であった。

愛媛時代

 十八歳で小学校の先生を辞めて、愛媛県師範学校へ入学することになったが、これは「もっと勉強したい」という気持ちの表れであった。
 三津浜から師範学校まで、約八キロを人力車に乗られた。下りる時、あまり豊かでもない財布の中から、大変多くのお金を車夫に与えようとされた。一緒に行った友達が「そんなにやらなくとも・・・。」と言うのを先生は「いや、いや、そうじゃない。歩いても良い若い者が車に乗って老人に引かせている。せめて、その償いとお礼の印です。」と言われた。簡野先生の哀れみ深い人柄が良く出ている話であろう。
 師範学校の生活は、社会人として二年間も経験している関係もあって、他の生徒とは違って、大分大人びていたようである。日曜日などの散歩には、必ず大きな瓢箪に酒を入れて、腰にぶら下げて出かけられた。散歩して訪ねるところもたいていはお寺や神社であった。寺に行けば必ず住職に面会し、詩の分かる和尚であれば、詩について話し、お寺にある書画や古文書などを見てまわるのが、いつもの習慣であった。
 生徒は全員寄宿舎に入って生活していた。簡野先生は生徒でありながら舎監を命ぜられた。先生が成績と共に人物も優れていた事を学校の先生、生徒共に認めていたのであった。けれども当時の簡野先生は一向に勉強はされなかった。なのに、いつも試験の成績は飛び抜けてよかった。
 友達の中に「簡野は人の知らない間にやっているのだ。」という噂を立てる者がいた。その一人、石川金太郎と言う者が先生の行動を監視し始めた。そして、先生が消灯の後で机の下に豆ランプを隠して、こっそり勉強していることを発見した。得意になった石川金太郎は、四、五人の仲間を誘って、こっそりと部屋の障子の外に忍び寄って、そっと障子の紙を濡らして穴を開け、音のしないように気をつけて覗き込んだ。教科書か、参考書を読んでいることとばかり思っていたのに、彼の読んでいる書物は何だか分からない、見たこともない漢文の本であった。案に相違した石川たちは、翌朝、盗み見したことを言って謝り、あのとき読んでいた本は何かと尋ねた。先生は笑いながら「これだよ」と言って投げ出された書物、それは中国の「荘子」註という書物であった。 
 当時、簡野先生は良く習字をされていたが、それは自分のつくった漢詩を書かれていたらしい。しかし当時のものは一つも残っていないのが残念である。
 その頃「教育新論」という五冊の本が出て、大変評判になった。先生も買いたいと思われたが買うお金がない。そこで、人に借りて、丁寧にその本全部を書き写された。字も上手であったので大変立派な写本が出来上がった。友達は先生が大切に仕舞うだろうと思っていると、
先生は、せっかく書き上げた写本をバラバラに解いて、その裏で習字を始められた。友人が「惜しい、惜しい」と言うと、先生は何でもないように、「百読は一写に如かず、覚える為に写したのだから、頭に入れてしまえば、もう用はないよ。」と言われた。一同感心しない者はなかったという。
 師範学校卒業にあたって、先生は総代として答辞を読まれたが、それは非常な名文で、漢詩で書かれてあった。
 また、在学中、大切な学科のノートを親友の浦尾惟正氏のもとに送り、浦尾氏はそれによって教員検定試験に合格したと言われている。
これもまた先生の友情の深さを物語る話である。
 師範学校卒業後は、東宇和郡柳郷小学校をはじめ、卯之町、宇摩郡三島、喜多郡大洲等で訓導を勤め、東宇和郡予子林では校長となられた。当時の簡野先生は、和服に下駄、それに流行の山高帽で、颯爽としておられたという。
 明治二十一、二年頃の教育界は、すべて欧米崇拝で、師範学校の寄宿舎の食事も洋食で、パンと肉類。小学校の教科に唱歌と体操が加えられ、小学校教員はすべて洋服を着ること、と言う命令が出された。この命令に頑として反対したのが先生であった。
県の役人が何と言っても洋服を着用せず、「日本には日本の風習がある。外国の風習に従う必要はない。」「唱歌よりは詩吟の方が、どれほど意気を奮い立たせるかわからない」「体操よりも、昔からの柔道・剣道の方が心身の鍛練になる。」と自分の信ずる道を述べて曲げられなかったという。頑固だ、古くさい等の悪口を言う者もあったが、とにかく欧米崇拝主義に対して、国の将来を心配する先生の気持ちが察せられる。

*註 「荘子」中国の周の時代の思想家及び彼が残した書物の名

東京へ

 明治二十五年「もっと勉強したい。」という強い気持ちはついに学校長の職を思い切りよく捨ててしまって、上京を決意させたのであった。東京に出たからと言って、仕事の当てがあったわけではない。頼りになる知り人がいるのでもない。妻や子供を餓死させないという保証はどこにもない。それでも簡野先生は、決然として郷里を後にされたのであった。固い強い覚悟であったに違いない。先生の苦難の時代、苦学の時代が始まったのであるが、先生は苦学という言葉を好まれなかった。 「世の中に、学ぶほどの楽しみは他に何があるか、何もない。学ぶと言うことはこの上なく貴いことである。私たちはこの学ぶことの為に働くのである。たとえどのように心や体が骨折りであったとしても、学ぶ為にはそれは楽しみであって、苦しみではない。苦学などという文字、言葉はあっても、そのような事実はない。」と言われている。論語の中の「学びて時に之を習う、また悦ばしからずや。」をそのまま感じ、行っているのであった。家賃月六十銭という粗末な家で、石炭箱を横にして、その上に風呂敷をかぶせたものを机にしての勉強が続いた。先生の髪はいつも奥さんが鋏で刈られた。身につけていた洋服は、当時六十銭で買ったものであった。お金がなくて大変苦しんだけれども心はいつも豊かであった。奥さんに刈られた虎刈りの頭の中には多くの書物からの知識が、きちんと詰め込まれており、石炭箱の上では、後々までもその価値が残る立派な本が作られていたのである。粗末な洋服を着ていても、その体の中には激しい向学心が溢れていたのであった。そんな苦しい貧しさの中にあっても、先生も奥様も決して他人の助けを借りようとはされなかった。また、お母様に対しても決して不自由をおかけすることはなかった。さらにどんな 時でも、どんな場合にも人の道に外れた行いは絶対されなかった。最も古くさいと言われている、孔子などのいう「君子の道」註を確実に守って生きようとした人であった。そうすることが「お金の面でも豊かになるものであり、成功することである。」という信念のもとに生きた人であった。

*註  君子の道・・・徳の高い立派な人の行う道

高師在学時代

 明治二十八年、東京高等師範学校に国語漢文専修科が設けられた。簡野先生はこれに入学 された。既に中等教員の免許状を持ち、漢文の教科書の編集や校閲をやっていた先生がどうして…。と不思議に思う人もあるかも知れないが、これまた、止むに止まれない向学心の表れであったのである。在学中は、先生の学問・識見も相当なものであった上に、教授も大家であったから、互いに磨き合い励み合い、先生の研究も進んだものと思われる。

教育者として

 高等師範学校卒業後、東京府師範学校(青山師範学校の前身)に勤められた。在職中に「初等漢文読本」「高等女子漢文読本」「中等漢文読本」等を出され、その後引き続いて次々と本を著していかれることになる。
 明治三十五年、三十八歳で東京女子師範学校の教授になられる。ある年、時の皇后陛下(照憲皇太后)が学校にお出でになり、生徒の授業をご覧になるということがあった。各教師は当日の為に授業の予行演習を幾度も幾度も行った。が、簡野先生は一度も、何もされようとしなかった。心配した生徒が「何か予行演習をしてください。」と先生に申し出た。ところが先生が襟を正して言われたのは、「自分は平素、最善の努力を尽くして授業をしている。情熱と誠意の限りを尽くした授業だ。これ以上のことは何もできない。予行演習も良いが、無理に芝居のようなことをするのは却って失礼になる。君子の恥ずる行いであるから自分にはできない。」と言うことであった。生徒たちは一言の言葉もなく引き下がったという。この頃から先生の教育に対する考え方が次第に変わってきたようであった。「教壇に立つ教育は、どんなに細かく丁寧に説明しても限られた時と人との間の範囲内でしかない。もっと多くの人々を、後々の世までも為になる教育をするには本を書く以外にはない。」と考えるようになったのである。こうして先生は、五十歳になった大正三年、きっぱりと教壇を去り、本を書き著わすことに打ち込んで行かれたのである。簡野先生が古い文字や言葉の意味を解釈する時、大変詳しく、行き届いていたことは事実であったが、それは、言葉の意味を正しく理解する上で必要であるからであった。 また先生は、孔子や孟子の教えが中国では既に亡んで、行われなくなってしまったことを歎いて、彼の国の人々にこの教えを広め、この教えで導き彼らを救っていかなければいけないといつも話しておられた。

漢 詩

 現在、漢詩を作る人は稀である。それは、漢字が難しい上に、詩のきまりが複雑で、面倒くさいと感じるからであろう。ところが先生は、既に十一、二歳の頃から漢詩を作られていたらしい。十七年の歳月を経て書き上げたとされる不朽の名著漢和辞典「字源」の序の初めに「予、幼時、唐詩選・三体詩を愛読し、且つ好みて五、七言絶句を作り推敲苦吟・夜々夜分に達せり」とあって数年間は詩作に熱中されたようである。けれども、十五、六歳以後は自由に作られ、字句を考えたり選ぶために苦心をしたり、何度も何度も練り直したりすることはなかったと言われている。自分の胸の中から流れ出る言葉を、あり合わせの紙にさらさらと書いたものが詩になっていたという。上品で、しかも格調の高い詩になっていたのである。 先生の詩は、酒に酔った時、または勉強の際などにふと感じて、封筒やはがきの端、新聞の折り込み広告、包装紙、パンフレットの裏、領収証、中には薬の包み紙に書かれた詩もあった。だから作られた詩の大部分は、掃き捨てられたり紙屑として屑籠に放り込まれたりしたと思われる。書物の間や、原稿用紙の中などに紛れ込んで残ったものが「虚舟詩存」という詩集に残っている幸運なものである。「詩は余暇にするので、自分の本来の仕事ではない。」と言われて、詩を残すこと、詩集を作ることを好まれなかったのである。「虚舟詩存」は先生の死後、弟子たちによって編集されたものである。

*註 唐詩選・・・中国、唐代百二十六人の詩を集めた詩集
*註 三体詩・・・唐詩を五言律詩、七言律詩、七言絶句の三体に分けて集めた詩集

著 述

 先生の出された本はよく売れ、よく読まれた。亡くなった後も却って読者が増えているという。現に「字源」は平成元年に三百版が出されており、今後も尚版を重ねるだろうと思われる。また、先日(平成二年十月)静岡市の某書店の書架に「唐詩選詳説」の新本を発見して感激したことを付け加えておく。
 先生の著作する時の態度は真剣そのものであった。本を著すと言うことは先生にとって生命そのものであると言っても過言ではない。著書のすべては先生一人の手によってできたものである。何度も何度も自分で校正した。できた本はその日のうちに読み返して念入りに調べ直した。

簡野道明先生の著書「字源」

一字一字、正確に調べて作られたのであった。晩年病気に苦しまれながらも、印刷所から校正刷りが返ってくると直に病床で校正される。周囲の者がご病気に障ることを気遣って、遠ざけるとかえってそのことが病気に障ったのであった。先生の本はまさに先生の体の肉を分けて作られたのであり、その中に先生の血が脈々と通っているのである。
 また先生は特に我が国の学者の書かれた本について詳しく読んでおられた。「それは、どの先生の、どの本を見ればよい。」「それは、何先生の註と、何先生の註を合わせてみれば良い。」と言うようなことを良く暗記され、言われていた。図書館や、古本市などで実際に見たものは言うまでもなく、一度でも聞いたことは決して忘れると言うことがなかった。「それは、何の本の何頁にある。」と言われる。先生の著書については、「何頁の何行目にある。」とまで言われて人々を驚かしたものであった。先生が本を出そうと思い立つと、数年、あるいは十数年にわたって材料を集め準備する。そしていったん筆を持つと、人間わざとは思われないほどの速さで一気に書き進めて行かれる。それは、長い間、頭の中に順序立てられていたものをするすると引き出すのに似ていた。
 著書に古人の説を引用する場合など、古人の本がいかに貴重な本であっても、平気で本の中から引用の部分を切り抜いて自分の原稿用紙に貼り付けられる。「もったいないではありませんか。」と言うと「出来上がれば、この本がさらに良いものになるから、もったいないと言うことはない。」と言われる。先生が自分の著書に対して持たれた自信の程を知ることができるのである。先生は、もちろん、その他の書物でもいつも正字を使い、俗字や略字は使用しなかった。これは先生の考え方によるもので、「文字は、それぞれの字ができた歴史と意味を持っている。一点一画にもそれぞれの意味がある。それを、単に『使う場合不便である』『覚えにくい』等という浅はかな理由で、数千年も、幾千万の人々に使われてきた文字を変えてはならない。」と。これが先生の持論であった。また、「中国の学問を研究するには、先ず一字一句の読みや意味を理解していなければ、たとえ幾百、幾千・万の本を読んでも心に深く止まらないであろう。」更に「狩谷棭斎先生が “文字の関まだ越えやらぬ旅人は道の奥をばいかで知るべき” と歌を詠んで、自分の為に学問の方向付けを示してもらった。」と文字や段落毎の意味の大切さを説かれたのであった。

*註  狩谷 棭斎・・・江戸後期の国学者で漢唐代の書を研究し、多く著書がある。

一歩を譲る

 先生の処世訓に「すべて物事は万事控え目にして、一歩を人に譲れ。」とある。仮に十だけの仕事をしたとき、十の報酬を得たとすれば、これは当然で正しい取引であろうが、社会奉仕という立場から考えてみると何も残らない。世の中で尊いものは無報酬の仕事である。無報酬の仕事を多くすることが人格の向上であり、徳を積み修行していく方法である。十の仕事で、五の報酬を得て満足すれば、五の仕事が残る。全然報酬を得ないで満足すれば十の仕事が世に残る。このような無報酬の仕事を陰徳というのである。陰徳を積み重ねていくと、やがて良い報いが表れてくるのである。こんな人はいつも心が広く、体も伸びやかであると言われている。
 また、十の仕事をしながら、十二、三あるいは二十、三十の報酬を欲しいと願い、もし得られたならば成功したと思い、幸運であったと喜ぶものがある。このようなものは、常に借金を負っているようなものであって失敗者であり不幸である。道に外れて金持ちになったとしても、それは浮き雲のようにはかないものである。実力以上に認められようとするのは誠に気の毒なことである。そんな人でも時には金持ちになり、栄えることがあるかも知れないが、それはほとんど期待できない・・・と。

刻苦勉励の人

 簡野先生はどんな仕事でも、どんな場合でも捨て身でかかられた。大学教授の時も、中学校や小学校の教諭の時でも、全力を傾けて、全く同じ熱と誠を尽くされた。「『そんなつまらない本の解釈なんか、おかしくて書けるもんか。』などと言う者に、難しい書物の解釈が立派にできる筈はない。関白、秀吉は日本一の草履取りであった。」また、初めて教師になる者に「中学一年生に教える時でも、一時間の授業の下調べを、二時間も三時間もかけてやるような心がけでなければ、人に分からせる授業はできないものだ。」と、戒められた。
 先生の著書を見れば捨て身になって仕事をしたその態度がよく分かるであろう。簡野先生が普通の人より頭脳明晰で優れていたことは生まれつきであるが、それ以上に寸暇を惜しんで努力した人であった。

簡野道明先生胸像

書物を読んでいて夕方になり薄暗くなると、家の人を呼んで頭上の電灯を付けさせるのが常であったが、それは面倒くさいからでなく、時間を愛おしみ、惜しんだからであった。また、弟子たちに「朝は三時に起きよ」と言っておられた。普通の人の一日分の仕事を朝のうちにやり終わってしまったのである。他の人々との旅行中でも、朝早く起き、人が気がついた時には、人の邪魔をしないよう電灯の明かりを暗くして読書をしておられたという。
 「一日再び晨なり難し」とか「成年重ねて来らず」とか言われるけれども、この言葉ほど簡野先生ほど痛切に感じている人が幾人あったであろうか。真に刻苦勉励の人であったと言えよう。

不言実行

 簡野先生はお酒が好きであった。弟子たちと酒を飲みながら徳利を振られることが度々あった。そして次のように言われた。「この音を聞いていたろう。どうだ。中味が減るに従って音は高くなるものじゃぁ。」と。
 これは先生がおしゃべりを戒めた教訓であった。つまり、内容が少ないほど、高い声を出して口数が多くなるものだという意味である。先生は、おしゃべりを好まず、いつも和やかな気分で黙々としていた。が、必要なことはよく分かるように筋道を立てて、こまごまと詳しく話しをされた。

清富論

 ある亡き友の追悼録に書いている言葉に「漢学者は、ややともすればお金や品物など経済面を軽く視る癖がある。これは誤った考えであって、元の許魯斎が『学問は暮らしの道をたてることを第一とする』と言っているが、これは実に永久に変わらない戒めとして心に留めて守っていかなければならない。」と。これも簡野先生の持論であって「生前どのように立派な人であっても、その人が死んでから後、直ちに子孫が路頭に迷うようなことがあってはならない。清貧ということは美しい言葉であるが、褒めるようなことではない。妻や子が生活していけるように考えてやるのも人の道として自然である。」と。また、「世間には、貧富にそれぞれ二通りあって、富の方には清富と濁富。貧の方にも清貧と濁貧とがある。清貧は最も美しいが、少し誤ると忽ち濁貧になり易い。しかし清富は人道に従って行っていけば、到達しやすく、また守り易いのである。人間は正当な努力によって清富を求めなくてはならない。」先生の清富論は以上のようなものであるが、先生はこれを立派に実現せられたのである。永年の困苦欠乏に堪えて、よくこの「清富」つまり、お金や財産を得ることができたのは、なみなみならない苦労があったであろうが、また、この成功の陰には大いに夫人の苦心があったのである。

*註  許魯斎・・・朱子学者  許衡とも言う

生活態度

 簡野先生ほど飲食に簡素な人はなかった。先生のよく言われた言葉に「よく人の顔を見ると、すぐ、どこの何を食べたいとか、どこの何が旨いと言う者があるが、そのような人は飲食の奴隷じゃ。」と。
 また「衣服、飲食は、人間は誰でもお世話になっていない者はないが、衣服の奇を好む者は、心がだらしなくみだらである。飲食の美を好む者は、心が卑しく下品である。』とも言われている。
 先生は『徒歩第一主義』であった。自動車に乗るなどということは滅多になく、よく日和下駄で、てくてくと歩かれた。
 汽車は利用するが必ず三等で決して急行列車には乗らなかった。そして「昔の旅は可愛い子にさせろと言って、修養の機会が多かったものだが、今の旅は、ただ贅沢と遊びを教えるだけだ。可愛い子に旅はさせられない。」と言われた。
 簡野先生は現代の物質文明、機械文明の利と害とを、最も正しく認識し正しい利用をされた方であった。この意味に於いて、最も進んだ文化人であったと言えるのではないだろうか。
 出かけるのに自動車があり、行くには汽車があり、寒ければ暖房、暑ければ冷房装置が、暗ければ電灯が、のどが渇けば衛生的な水道がある。これらをただ、楽しみを受けるだけにむやみに使い尽くしてしまうならば、ひとたび災害などでこれらが止まるようなことがあった時、どのような行動ができるだろうか。車がなければ一キロも歩けない、走れないという人が、果たして真の文化人だろうか。そういう意味で先生を想う時、毅然として何物にもとらわれない人生の達人と言えるのではないだろうか。