創立者 簡野信衛先生のお父上は蘭医で、福沢諭吉先生ともご交遊のあった方でした。信衛先生は元治元(1864)年、愛媛県松山にご誕生になりました。当時の愛媛は、江戸時代より様々な思想や政治の潮流が交差する土地柄であり、このような教育環境に恵まれたためか、信衛先生は、封建的女性教育者とは異なる、かなり進歩的世界観とグローバルな視野をお持ちでした。愛媛県の大洲喜多村の小学校で訓導(今の教諭)をされており、その頃に道明先生とお知り合いになりました。学者である道明先生は、仕事のこととなるとかなり気難しいところがあったそうですが、信衛先生は、夫のために黙々と働き、相当な心配りをごく当然のごとくにこなしておられたといいます。道明先生は教育者でありましたが、お子様やお孫様の躾や教育は専ら信衛先生にお任せだったそうです。 |
道明先生亡き後、この地を守ってきた信衛先生は、これに賛同されませんでした。それは「戦争」とは非人道的行為であり、道明先生のご遺志とはかけ離れたものだったからです。そこで、この間雲荘を純粋な学問探究の場として守ろうと女学校の創立に尽力をすることをご決心なさりました。このご決断は、学問、そして教育への真摯なお心の反映であり、本学園の誇りの一つです。
戦前の女子教育、多くの女学校創立の精神は「良妻賢母」が主流でしたが、本学園は、創立者 簡野信衛先生を始め、岩垂憲徳先生・佐藤文四郎先生・池田一理事・簡野高明理事といった創立にあたった方々の数年にわたる話し合いの結果、「堅実な女性の育成」「簡野道明先生のご遺志である『社会への還元』」という当時としては先進的な建学の精神を打ち立て、理想的な女学校の設立を目指し、昭和16(1941)年4月、財団法人簡野育英会 蒲田高等女学校として創立されました。
信衛先生は初代理事長に就任され、本学園の創立もまことに順調で輝かしいものでしたが、それとは別に第二次世界大戦が次第に拡大され、東京も来る日も来る日も空襲の恐ろしさにおびやかされるようになりました。そして、ついに昭和20(1945)年4月15日の空襲によって、本校の校舎、講堂そして美しかった校庭も全焼してしまいました。 当時、老齢だった先生を想い、周りの者は是非疎開して頂きたいと懇願しましたが、信衛先生は「吾が身をかまっていたのでは、学校の復興はおぼつかない」と申されて、聞き入れませんでした。 そして、校舎全焼という憂き目に失望されることもなく、学校再建に努力されていましたが、ついに昭和20(1945)年5月29日、大森の仮事務所において焼夷弾の直撃を受け、殉職されました。享年82歳。法名「慈徳院貞信有竹大姉」(信衛先生は竹をこよなく愛したことから号を「有竹」とされました。本校同窓会「有竹会」、文化祭「有竹祭」の名称はこれに由来します。) |